【読書録】J.S.ミル『自由論』を読む Pt.3

 ミカグラです。

 

 前回更新から大きく間が空いてしまいましたが、やっとまとまった時間が取れたので、J.S.ミルの『自由論』の要約を再開します。

 

 今回は第三章『幸福の諸要素の一つとしての個性について』を読んで、要約します。

 


 

 個人がある意見を表明することに対しての自由と同じように、個人には、自らの意見を自分自身の責任において実行すること、行動することの自由がある。そしていかなる人も、その行動により危害を及ぼすおそれのない限り、この自由を侵してはならない。これは、「意見を表明する自由」が保障されるべき理由(つまり、第二章で述べたもの)と全く同じ理由による。

 ところが現在*1、個人が自発的に行動することが価値のあり尊敬すべきことであるという認識は、一般にはほとんど認められていない。むしろ、個性をもった行動は、社会生活における伝統や慣習を受け入れる上での障害になるとして、ひどく嫌われている。しかしながら、次の3つの点

  • そもそもすべての伝統や慣習が正しいとは限らない
  • 仮に正しいとしても、個人それ自身にうまくあてはまるとは限らない
  • 仮に正しくまた個人にあてはまるとしても、伝統や慣習をそのまま受け入れるだけでは人間的な成長ができない

で、伝統や慣習により個人の自由を制限することは間違っている。とくに3つ目の点について、人間はただ慣習を受け入れて生活するだけでは、人間のもつ知的能力は成長しない。こうした知性を育てるためには、慣習に対してあくまでも自身の判断のもとでこれを受け入れる、すなわち個人の自由に任せることが重要である。

 人間の理性と同様、人間の持つ衝動や欲望(これを精力と言い換えることもできる)もまた、尊重されるべきものである。人間が悪いことをするのは、自己の理性や良心が弱いからであり、強い精力それ自体は何ら危険なものではない。精力はむしろ、善へとつながる活力の源泉にもなりうる。だから、これを抑えてはならない。

 要するに、知性・精力にかかわらず、人間の個性はそのまま、その人間の価値となる。人間の個性を尊びまたこれを保証することは、人間がよく発達することと等しい。そして、よく発達し価値ある人間があふれるようになれば、個人の集合体である社会もまた、その価値を高めていく。

 

 次に、自由を行使することを望まない人々が、他人に自由を許すことの利点を論じる。

 まず、個性の発達した人は、その独創力によって新たな真理を発見し、周囲のものはそれを学ぶだろう。このような人たちは「天才」と呼ばれるが、筆者はこの重要性を強調する。世間では、凡庸な人間が多数を占め、その大衆の力が政治を動かしている。つまり、政治は凡人によって営まれている。しかし、凡人による政治は凡庸な結果以外を生まない。より賢明な道を示すのは、そうした大衆に抑圧されている個性であり、独創性である。

 また、精神的に優れた人、天才だけでなくても、行動の自由は許されなければならない。なぜなら、我々の身体的寸法がそれぞれ違うように、人間それぞれにあった趣味、生活様式、快楽の得かたはそれぞれ違うからである。こうした多様性を守ることこそが、社会の発展につながる。

 

 以上、個人がもつ行動の自由がなぜ守られるべきかについて論じたが、現在はこれらの利点はほぼ顧みられることなく、社会は個人を同化させるべく動いている。そして、この流れは個性の価値を人々が認識しない限り、止まることはないだろう。

 


 

 以上、第三章をまとめました。

 この章では、思想の自由だけでなく、それに伴う行動の自由も保障されるべきことが、一貫して主張されています。章の後半では、その理由を「天才の保護」と「多様性の保護」の2つに求め、これがいかに社会にとって重要であるか、を説いています。

 

 次回は第四章を読みたいです。

 ありがとうございました。

*1:ミルのいう「現在」は、『自由論』執筆当時、すなわち19世紀半ばのイギリスを指しています。とはいえ、ここに書かれている状況では、21世紀現在でもあまり変わらないでしょう。