【読書録】J.S.ミル『自由論』を読む Pt.2

 ミカグラです。

 

 前回から時間が取れずに書けなかった(決してサボっていたわけではないんだぞ!)J.S.ミルの『自由論』を、読んでまとめていきます。

 

 今回は第二章『思想と討論の自由』を読んで、要約します。

 

 


 

 個人がある意見を表明することに対して、強制力をもって制限することは不当である。そのような権利は、政府のような権威にも、また社会の一個人にも、認められない。なぜかというと、意見表明を制限し弾圧することは、人類全体に対する利益を失うこととなって、有害だからである。これには、3つの根拠が存在する。

 

 まず、強制的に抑圧されようとしている意見が、真理である可能性がある。真理であるかもしれない意見を抑圧しようとしているとき、抑圧しようとしている主体は、自身の無謬性*1を仮定している。しかし、すべての人類は可謬性*2を持っている。だから、個人の意見、あるいは人間によって形作られた党派、宗派、あるいは時代の潮流といったもののすべての意見は、常に間違いである可能性を持っている。だから、自らが間違いを犯していないという仮定の下、ほかの意見を抑圧するのは、そうした真理から遠ざかることにつながり、有害である。

 

 次に、抑圧されようとしている意見が完全に真理でなくとも、その意見の中には真理が含まれている場合を考える。先にあげた可謬性を考えると、広く大衆に受け入れられている意見は、すべてが真理であるとは限らず、誤りを含んでいる可能性がある。だから、支配的な意見に真っ向から対立する意見であっても、それを無視し黙殺することは、何らかの真理を失ってしまうことにつながる。多面的な角度から真理を探究するためには、多様な意見を公平に存在させる必要がある。

 さらに、こうした対立意見への不寛容は、新しい意見が表に出るのを防ぎ、またそのような活動を委縮させてしまう。このような状態は、表面的には異端な意見により支配的な意見が乱されず、平和になっているように見える。しかし、こうした状態では知性は進歩せず、真理に近づく活動はできなくなるため、結果として世界全体では大きな利益を失う。このように、対立意見の不寛容は、世界全体に大きな害をもたらす。

 

 最後に、もし支配的な意見が少しの間違いも含まない場合を考える。この場合であっても、対立する意見の黙殺は有害である。それは、支配的な意見が対立意見によって議論にさらされなければ、多くの人々は支配的な意見を理解せず、宗教のごとく信奉してしまうからである。

 ある意見は、討論によって批判されることによって、訂正され真理に近づき、あるいは批判に対する反論によって、その根拠づけをより明確にすることができる。こうした討論のプロセスを経ることによって、一つの意見はより真理に近づき、さらに人は意見とその根拠を深く理解することができる。こうしたステップを飛ばし、ただ意見を覚えるだけでは、その根拠を十分に理解したとは言えず、たんなる盲信でしかなくなる。

 また、上にあげたような議論が行われなくなる場合は、もとの意見の主張そのものが弱くなり、結果として影響力を失っていく。自らが議論を通して、意見を訂正・根拠づけにより補強する、といった経験が失われていけば、残るのは機械的に暗記された文言のみである。そうなってしまった主張はもはや真理に向かって成長してゆくことはなく、ゆえに主張としての威力を失う。いわば、「死んだ」主張になってしまう。こうした理由からも、常にある意見が表明されたり、あるいは反論をされたりということは、妨げられてはいけないのである。

 

 以上の理由から、何人も、ある個人が意見を表明することに対して、それを強制力を持って制限することは、有害である。だから、こうした権利は不当である。

 


 

 以上、第二章をまとめました。意見の表明に対して、

  • その意見が完全に真である場合 (100 %)
  • その意見が真であることを含む場合 (1-99 %)
  • その意見が完全に間違っている場合 (0 %)

の3つの場合に分け、そのそれぞれについて意見を弾圧することの有害性を説いています。第一章で紹介した「他者危害原則*3」に照らせば、こうした世界全体に有害である行為は許されない、という結論になります。

 次回は第三章を読みたいです。

 ありがとうございました。

*1:自らが誤っていないということ

*2:誤りを犯しうること

*3:すべての個人は、他人に危害を加えない限りはどのような行動も許される、という規則