【論説】知識と世界の解像度の話

 ミカグラです。

 

 久々にまじめな記事を書きます。今回は、知識をつけることはなぜ重要なのか、を、世界の見え方、「解像度」に照らして論じようと思います。

 

 

 

博物館で感じたこと

 先日、東京国立博物館に行きました。日本最大級の博物館だけあって、縄文・弥生時代といった古代の遺物から、20世紀の美術作品に至るまで、様々な歴史的資料や芸術品が展示されていました。

 その中で特に私の心をひきつけた作品がありました。「大唐西域記*1」です。

f:id:cardinalfang-quizmasta:20200929171104p:plain

東京国立博物館では、原則写真の撮影は許可されています。

ある文章を筆写する際、普通は白い紙に黒の文字(墨文字)でものを書くため、こうした書物は見た目にはどうしても地味な印象を受けます。しかし、この作品には紺地の紙に金と銀の文字がしたためられていました。深い青と、きらめく金銀のコントラストが非常にきれいで、私は荘厳な印象を受けました。

 しかし、私には漢文の素養がないので、ここに何が書いてあるかを理解することは、残念ながらかないませんでした。と同時に、文章の意味が分かればなんとよかっただろうと、その時初めて思いました。見た目がきれいだ、というのは確かに感動を与えましたが、ここに書いてある内容がもしわかったら、当時のようすがわかっただろう、そして、この展示物が越えてきた時代に思いを馳せることができただろうと感じたのでした。

 

 もう一つ、知識によって見え方が変わった一番の例も味わいました。それは、特別に展示されていた「三条宗近(別名: 三日月宗近)」を見たときでした。

f:id:cardinalfang-quizmasta:20200929173045p:plain

かっこいい!

私は刀剣についての知識は皆無だったのですが、私と一緒に博物館に来た後輩が刀剣のファンということで、宗近に関するいろいろな知識を教えてもらいました。刀身に三日月の模様が見えるために三日月宗近という名を冠していること。今まで一度も人を斬ったことがないといわれていること。言われてみれば確かに、この刀剣には三日月の文様がはっきりと浮かんでいて、展示されていたほかの刀剣にはありませんでした。宗近とほかの刀剣にはっきり違いを感じた、言い換えれば「刀剣の見え方が変わった」瞬間です。こうした気づきは、事前に知識がないとなかなかわかりません。

  このように、私は博物館で、知識があることで得をした経験、知識がないことで悔やんだ経験の両方を味わいました。これが、今回の記事を書こうと思ったきっかけともなりました。

 では、知識と世界の見え方には、いったいどのような関係があるのでしょうか。

 

ソシュール言語学

 スイスの言語哲学者フェルディナン・ド・ソシュールは、その言語理論のなかで、「言語による世界の分節」というものを提唱しました。これはいったい何でしょうか。

 まず、我々はものに名前を付けている、ということを、さながらものや概念になにか「ラベル」を貼っている、というようにとらえていることと思います*2。しかしソシュールはそう考えません。彼は、名前によってはじめて、世界は分節化されていくと考えたのです。

 例を挙げてみましょう。「ぶり」という魚があります。これは出世魚、すなわち成長度合いによって呼び方が変わる魚として知られています。ぶりの場合は、若い順に「つばす→はまち→めじろ→ぶり」と呼び方が変わります*3。つまりぶりは、最も成長しきった魚です。

 しかし英語では、ぶりは成長度合いにかかわらず、すべて "yellowtail" と呼びます*4。つまり、日本語を扱う人々と英語を扱う人々では、ぶり(あるいはyellowtail)という魚の分節の仕方が違う、すなわちとらえ方が異なっているのです。

 つまり、名前は「はじめからあるものにラベルつけをしていく」という後付け的なものではなく、「名前によって世界を切り分けている」という働きを持つものだ、ということです。そして、こうした世界の切り分け方は、言語(日本語、英語、フランス語、etc. )によって異なるといいます。

 この議論を推し進めていくと、言語はそれぞれ分節化の方法が異なり、異なる言語は同じ世界を異なるとらえ方で映している、と結論できます*5

 

知識で世界を切り分ける

 ここまで、言語によって世界は切り分けられているというソシュールの議論を紹介しました。私は、この考え方は人間の「知識」についても同じように適用できるのではないか、と考えます。人間は自分の知識に基づいて世界を見ています。すると、異なる知識を持っている人は、異なる世界の分け方、見え方をしているはずです。私はこれを、知識によって世界がより細かく見えるようになったという意味で、世界の「解像度」が上がる、と表現します。

 例をあげてみましょう。平安時代ごろの貴族は、病気を物の怪の仕業として考えていました*6。だから、それを直すためには加持祈祷やお祓いなど、呪術的な手法が用いられてきました。しかし、医学の発達に伴って病気についての「知識」が共有されると、人間はそれに対しての治療法や医薬品を生み出し、病気を解決するようになりました。

 私たちも、医学に対して深い素養はなくても、流行りの風邪は細菌やウイルスという微小な存在によるものだとか、栄養不足によって引き起こされる病気があるだとか、そういった知識は持ち合わせています。それに伴って、病気は「もののけ」によるものだという思考は、私たちの世界からはしだいに追放されています。これは、人間の世界に対する見方が、知識の違いによって変わったという強い証拠ではないでしょうか。

 先に話した博物館での出来事も、これによって説明できます。知識を持つと、その分世界の見え方が違って見える。だから、漢文の意味が分かればもっと感動できただろうし、三日月宗近とほかの刀剣の違いを発見できた。ともすればみなさんも、こうした経験が思い当たるのではないでしょうか。

 

知識が増える=善、とは限らないが……

 ここで一つ付け加えておきたいのは、世界の解像度が上がることは、必ずしも「良い」ことには結びつかない、ということです。

 世の中で実演されている手品の99.9%には、残念ながらタネやしかけがあります*7。しかしながら、私も含め世界の大多数の人間は、マジックのタネを知りません。だから、まるで超常現象が起きているかのように感じ、驚きと感動を味わうことができます*8

 しかし、マジックに精通している人は、たいていのマジックのタネを知っているでしょう。ということは、同じものを見ていながら、我々とは別の世界を見ていることになります。私はマジックについてはズブの素人なので、具体的にどう、ということは言えませんが、少なくともタネの見えているマジックを「超常現象」と認識することはまずないでしょうし、それに付随する驚きや感動はないでしょう。

 知識がついたことにより、その世界がよりよく見えるかどうかはわかりません。解像度の細かさは、必ずしも「良い」といった価値観に結びつくとは限りません。しかし、「見え方が変わる」という点は、おそらく否定できないと思います。

 

余談: なぜ勉強するのか

 先に世界の解像度が上がる=世界がよくなる、とは限らないという議論をしました。しかしながら、それでも、世界の解像度を細かくできると、たいていはなんらかの得をするし、たいていはなんらかが楽しくなると思います。もっとも、これは自分の体感なので真偽は定かではないですが。

 上にあげたマジックの例は、かなり極端な、悪意をもって選んだ例です。医学の進歩で人類が「知識」を得てから、日本の平均寿命は確実に上昇しているし、病気への恐怖は昔に比べても格段に弱まったといえるでしょう。三日月宗近に対する「知識」を得てから刀剣の展示を見て、その美しさに私は感動しましたし、はまちよりもぶりのほうが脂がのっていて生で食べるにはおいしいです。

 思うに、勉強の意義もここにあるのではないかと思います。知識によって世界の解像度が上がれば、なんかいいことが起こるし、なんか楽しいです。少なくとも、「他人には見えないなにか」が見えることは、確かな事実です。その価値が高いか低いかは、それが見えた人にしかわかりません。

 

 以上、知識を持つことによって、同じ世界でもより解像度を上げて見ることができる、という話でした。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

*1:唐僧玄奘がインド周辺の見聞を口述し、弟子の弁機がそれを筆録したもの(wikipediaより引用)。

*2:全員がそうとは断定できませんが、おそらく多くの人はそうでしょう。

*3:呼び名には地域差があるようです。

*4:しっぽの一部が黄色く見えることから。まんまですね。

*5:言語相対論

*6:よ~う~か~い~の~せいなのね そうなのね!

*7:私は、マジシャンに擬態して生息する超能力者の可能性を否定しません; それが科学というものでしょう?

*8:当然、本当に超常現象を起こしている可能性もあります。