【論説】知的散文は透明であれ【10万人記念記事】

 ミカグラです。

 先日、こちらのブログ「0と1の間でティータイム」の総閲覧数が100,000に到達しました。皆様本当にありがとうございます。

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なんとか今年中に達成できました

 10万人を記念して一つ記事を上げたいと思ったので、今回は今一度「作文論」をテーマに、作文を勉強する理由、作文論という勉強の目的、そして表題にある「知的散文は透明であれ」という主張を語ります。

 おそらく今年最後の文章になります。お付き合いいただければと思います。

 

 

 

知的散文ってなに

 まず、そもそも知的散文ってなんですか?ということを、ここであらかじめ定義しておきましょう。

 私がこの言葉を最初に学んだのは、清水幾太郎著『論文の書き方』を読んだときでした。彼はこの中で、みずからが焦点をあてる「論文」について、次のように記しています。

 本書で「論文」というのは、差当り、「知的論文」というほどの広い意味である。内容及び形式が知的であるような文章のことである。一方、それは、詩と関係がないのは自明のこととして、同じ散文でも、芸術的効果を狙ったもの、即ち、小説や随筆とは区別される。この区別は明瞭でなければならないと思う。「芸術写真」という言葉が教えているように、曖昧なもの、思わせぶりなもの、深そうなもの……つまり、「知的散文」が正に避けねばならぬものが芸術の名で居直ってしまう例が多いからである。

彼は、「知的散文」という言葉をこのように定義しています。文章を読むと、「知的散文」と、語感そのものを楽しむ韻文、芸術的効果を狙う小説・随筆との間に、はっきりと境界線を引いていることがわかります。

 この記述を踏まえて、自分なりに知的散文の本質を抜き出すならば、それは「文章を通して、一つの主張があること」でしょう。主張というのは、ある時は世界に存在する事実であったり、ある時は筆者自身の意見であるといえます。真なる事実を伝えることは、読者の知識を増やし、また意見を述べることは、新たな知をもたらします。これらを考えれば、知的散文というのは、「事実・意見といった主張が存在し、それを伝える文章」のことを指すといっていいでしょう。

 

フォントに学ぶ

 では、「文章が透明である」とはどういったことを指すのでしょうか。それを示すために、言葉に形を与える「文字」の話を例にとって、お話します。

 べアトリス・ウォード Beatrice Warde というアメリカのタイポグラファーがいます。彼女は、イギリスの印刷会社モノタイプ Monotype で要職をこなし、そのなかで現代の書体芸術、フォントにつながる組版学について多大な功績を残しました。

 彼女は著書"The Crystal Goblet"*1のなかで、文章が書かれるフォントはワイングラスと同じ、と主張します。ワインの色を最大限に味わうためには、グラスはできる限り透明でなければならない。同じように、そこに書いてある考えが最大限伝わるためには、書体そのものが目立ってはいけない、というものです。ウォードの考えは、新奇をてらう考えをたしなめ、書体の役割を考えの伝達に求める、ストイックなものでした。

 現代では、印刷文化や映像文化の発展に伴い、書体にも芸術性を求められることが多くなりました。そうした場面では、ウォードの主張は、現代では極端で、いささか厳しすぎるきらいはあるでしょう。しかしながら、こと文章の主張を伝達することを目的とする知的散文については、フォントを目立たせてはいけないという意見は、まっとうであるように思います。

 私は、知的散文においては、書体だけでなく文章そのものについても、ワイングラスのように透明でなければいけないと考えます。そこに書かれている言葉や表現が、読者にとって引っ掛かるようではいけない。私は、いまの主張を端的にまとめ、「文章は透明であれ」という意見を表明します。

 

知的散文は透明であれ

 では、文章が透明であるとは、どういうことかを考えていきましょう。

 まず、言葉遣いによって文章の透明度は変化します。例えば、同じ主張を伝えたいときに、より難解な言葉を用いたとします。確かに、難解な言葉が並んだ文章は、どこかインテリな印象を与えるかもしれません。しかし、語の意味が読者にすんなりと受け入れられなければ、主張がはっきりと伝わることはありません。これは、いうなれば文章の「くもり」です。同じように、平易な言葉を、と意識するあまり、広すぎる意味を持つ言葉を使いすぎることもまた、主張をぼやけさせてしまい、くもらせる原因となります。終始回りくどい表現を用いた文章もまた、言い回しそのものは目立ちこそすれ、主張を明確に示すことはできないでしょう。

 さらに、文章を貫く論証がしっかりと構成されていることも、文章が透明であるためには欠かせません。論理の筋道を無視し、奇をてらった構成の文章は、読者を悩ませてしまい、主張を伝えにくくします。中には、意見文の体裁にもかかわらず、結論が全く示されておらず、主張がよくわからない文章もあります。そうしたものは、透明な知的文章とは呼べません。

 このように、文章を透明にするということが、知的散文を書く上で必要な力であるように、私は思うのです。良く整理された知的散文に置いては、すべての言葉や文は、一つの主張を曇りなく明確に伝えるよう配置されています。そこに込められた主張こそが主役であり、すべての文章はその主張のために裏方に徹しなければならない。それが、知的散文に任された役割です。

 思うに、作文論を勉強する意義も、ここにあるのではないでしょうか。すなわち、自分が考えたこと、感じたことを、透明な文章で伝えられるようにするために、文章の書き方を学ぶ、ということです。そして、こうした工夫が誰の目にも止まることなく、読み手にスルーされたときにはじめて、一つの到達点にたどり着いた、胸を張って文章力がついた、といえるのかな、と感じます。

 

さいごに

 「思考の言語化」「感情の言語化」ということがよく言われます。自分が考えたことや感じたことを、言語として表現し、他人に伝えるということは、非常に難しい作業です。しかしそれは、時に他人の感情を動かし、あるいは他人の知を高める活動でもあります。私は、このブログを通して、そうした活動をする人々の助けができればと思っています。

 これからも、透明な文章を書くための勉強成果のまとめとして、また透明な文章を書く実践の場として、文章を生み出し続けていきたいです。もちろん、知的散文以外のくだらない文章もどんどん投稿していこうかな、と思います。

 これからも「0と1の間でティータイム」をよろしくお願いします。

*1:日本語訳は検索しましたが見つかりませんでした。透明な盃、とでも訳しましょうか