ミカグラです。
さて、文章を読むこと、書くことの重要性が、見直されてきています。それに伴って、作文の技法を説く本が増えてきました。そうした文章指南を見ていると、「論理的な文章」とか「論理的に話す」といった文言が並んでいます。
では、「論理的」っていったいなんなんでしょうか?
今回は、論理的な文章とは何かについて、論理そのものを考察する「論理学」の立場から説明していきます。また関連して、「批判的な読み」の方法についてもふれていきます。
論理学からみた「論理的」
ある文章、ないし発言が論理的である、ということを一文で表現するならば、
「前提をもとに、推論を用いて、結論を導いていること」
と言えるでしょう。
まてまてまてまて。前提ってなんだ。結論ってなんだ。推論ってもっとなんだ。
順を追って説明しましょう。
今回は、論理学の知識をもとに、「論理的な文章とは何か」を説明することにしましょう。論理学とは、ざっくり言えば「人間がどのように思考をしているか」、つまりここでいう論理を研究する学問です。
一例をあげて説明します。
たとえば、「すべての昆虫は6本の足をもつ」と「カブトムシは昆虫である」という2つの事実が成り立っているとします。この、「成り立っているとすること」を、論理学では前提ないし仮定といいます。以下では、前提と呼ぶことにしましょう。
この時、適切なルールを用いることで、「カブトムシは6本足である」という結論が得られます。これは、以下のようにして導くことができます。
- 前提から、すべてのxについて、xが昆虫であるならば、xは6本足である
- 1から、xには何を入れてもいいので、カブトムシについても、「カブトムシが昆虫であるならば、カブトムシは6本足である」が成り立つ
- 前提から、カブトムシは昆虫である
- 2, 3から、カブトムシは6本足である
さて、この推論を見てみると、2番では
「すべてのxがPを満たすならば、aもPを満たす」
というルール、4番では
「『Pである』と『PならばQである』が両方成り立っているならば、
『Qである』も成り立つ」
というルールが用いられています。こうした、いくつかの正しいルールのことを、論理学では推論規則と呼びます。そして、この推論規則を用いて前提から結論を出す一連の行為を、推論と呼びます。
このように、我々が何かを導く際の論理は、全員が納得するある一定のルールで構成されています。こうしたルールに従ったものこそが、論理的であると言えるのです。
話を文章に戻しましょう。
説明文・評論文においては常に論理が流れを支配しています。であれば、論理学における推論の重要性は、そのまま「論理的な文」の必要条件になります。つまり、論理的な文とは、前提をもとに適切な推論に基づいて主張をするような文、ということです。
また、結論は新たな前提になります。例えば、カブトムシは6本足であることと、ヘラクレスオオカブトはカブトムシの一種であることから、ヘラクレスオオカブトもまた6本足であることがわかります。このとき、「カブトムシは6本の足をもつ」という主張は、結論から前提になりうるということです。文章でも同じように、示された結論がさらに前提となって、次の結論が……というように、連綿と続いていきます。長い文章では、こうして筆者がもっとも主張したいことが説明されるのです。
「論理的」だけじゃダメなんだ
では、論理的な文章はすべて、正しい主張を示した文章なのでしょうか?結論から言うと、そうではありません。
次の論証を考えてみましょう。
「すべての鳥類は空を飛ぶ。ペンギンは鳥である。だから、ペンギンは空を飛ぶ」
これは、「論理的には」正しい文章です。試しに、カブトムシの例のように、推論を書き出すことにしましょう。
- 前提として、すべてのxについて、xが鳥類であるならば、xは空を飛ぶ
- 1から、xには何を入れてもいいので、ペンギンについても、「ペンギンが鳥類であるならば、ペンギンは空を飛ぶ」が成り立つ
- 前提から、ペンギンは鳥類である
- 2, 3から、ペンギンは空を飛ぶ
そして、カブトムシの例と比べると、2, 4では同じ推論規則を用いていることがわかります。すなわち、推論それ自体に間違いはまったくありません。
では、なぜいけなかったのか。それは、「すべての鳥類は空を飛ぶ」という前提が間違っているからです。間違った前提からはじめてしまうと、たとえ正しい推論を行ったとしても、正しい結論を出すことができません。
つまり、主張のある文章は、論理的に構成されているだけでなく、正しい前提を用いなければならない、ということです。前提が正しいことを証明するためには、さらに別の前提を辿らなければいけません。これらを突き詰めると、前提を納得させることが重要であるといえます。
ここまででわかるように、よく言われる「論理的な文章」とは、
- 論理的なルールにより前提から結論が導かれる(狭義の「論理的」)文章
であり、かつ
- 前提が納得させられる文章
のことをいうのです。
良い前提とはなにか?
論理的な文章は、「前提」と「推論規則」によって成り立つこと、そして前提を納得させる文章が、巷で言われる「論理的な」文章だ、ということがわかりました。それでは、文章における良い前提とはなにかを見ていきましょう。
事実を列挙する
事実を列挙することは、前提を置くことです。そしてこの前提は、「納得できるもの」として、読者に訴えかけることになります。前提は、つねに間違っている可能性を含んでいますから、「間違っているじゃないか」と反駁されることもあります。しかしながら、世界にある「事実」をもとにした前提は、反駁されることはありません。
すでに他人が示したことをもとに推論をすすめることもできます。この時、他人の主張という「前提」は、文中には「引用」という形で現れることになります。
読者の想定
読者を想定するということも、前提をおくという動作に含めることができます。読者を想定することは、「読者はこれこれの人である」という前提を措くことです。「これこれの人には当てはまり、またそうでない人には当てはまらないだろう」というものです。これは一見すると論を弱くしているかのように見えますが、適切な前提をおくことで、むしろその前提の中での論の強さを強調しています。
どのような読者を想定するかどうかは、完全に書き手にゆだねられています。つまり、これは文章の中でも「書き手が自由における正しい前提」と言えます。もちろん、こんな人に読んでほしい!という意味で読者を想定し文章に記すことも良いですが、どうせなら「読者に納得される前提」として使ってしまうと、さらに説得力を上げられます。
批判的な読みのポイント
読書や読解においては、「批判的に読む」という言葉をよく聞くでしょう。では、批判的な読みとは何なのか?どうやって「批判」すればいいのか?ここまでの議論から、いかに「批判的」であるべきか、というヒントを得ることができます。
ある文章の主張に対して、それは本当に正しいのだろうか?と批判的に考えるためのキーポイントは、大きく分ければこの2つに集約されます。
- 推論を批判する: 間違った推論をしていないか?
- 前提を批判する: 正しくない前提を用いていないか?
では、実例をひとつずつ見ていきましょう。
論理にまちがいがないか
一つ目の観点は、正しい推論が使われているかを見るものです。例を3つほどあげて説明しましょう。
逆は真ならず
まず、「AならばB」だからといって、「BならばA」が成り立つとは限りません。これを「逆は真ならず」といいます。例えば、次のような議論は(たとえ前提が正しいとしても)成り立ちません。
「マッチョな人はみんなプロテインを飲んでいる。だから、自分もプロテインを飲めばマッチョになれる。」
裏は真ならず
また、「AならばB」から「AでないならばBでない」も正しい推論ではありません。論理学では、この「AでないならばBでない」という形式の文を、「AならばB」という文の裏と呼びます。それに倣って、この誤った推論は「裏は真ならず」ということができるでしょう。例えば、
「ルールを守る人には道徳心がある。だから、ルールを破った人には道徳心がない。」
という議論は、一見もっともらしく見えます。しかし、これは
「人間はすべて呼吸をしている。だから、人間でない動物はすべて呼吸をしていない」
という推論とまったく同じ型をしています。後者をみれば、前者がおかしい議論であることは明らかでしょう。
過度な一般化
次の議論は、「過度な一般化」と呼ばれる、誤った議論の典型例です。
「私の友達のイタリア人は女好きだ。だから、イタリア人はみな女好きだ」
これを一般的な形式であらわすと、「aはPである」から「すべてのxはPである」という推論になります。これは「過度な一般化」と呼ばれますが、このような推論は存在しません。
同じ形式の次の推論を見れば、これが間違いであることはよりはっきりわかると思います。
「鳥類の一種であるペンギンは空を飛べない。だから、鳥類は空を飛べない。」
前提にまちがいがないか
もう一つの観点は、「扱われている前提は正しいか」というものです。議論の中で立てられている一つ一つの前提について、それが本当に事実であるのかを検討していくのです。いくら議論が正しくても、前提としている事実が異なれば、結果的には正しくない主張が生まれることになります。
また、前提のなかには本文中には書かれていない、いわゆる「隠れた前提」というものもあります。より批判的な読みをするためには、この隠れた前提をも見通せるようにしなければいけません。
「成績を上げると、より上位の大学に合格できる。そのためには、勉強時間をふやっすことが大切だ」
という議論にある、隠れた前提「勉強時間を増やせば成績は上がる」を見つけることはできますか?そして、この前提は本当に正しいといえますか?
前提を疑うというプロセスがわかる文章として、手前味噌ではありますが、私の過去の記事『【緊急】二次創作の「呪い」を、解きに来ました。』が参考になると思います。
まとめ
- 「論理的な文章」は、推論が正しく行われている文章のこと
- 説得力のある文を書くためには、論理的であることと前提が正しい事の2つが必要
- 批判的な読みとは、前提と推論の2つを疑うこと
読んでいただき、ありがとうございます。