東京大学を卒業しました 対あり
(ここに良い感じの画像を貼る)*1
思うところを乱雑に*2書きます。
雑な振り返り
1年前期
必修がバカほど大変でしんどかった(あんまり記憶がない)。ゲーセンが近くなったおかげで音楽ゲームを本格的に触るようになったし、謎解きや友人との飯もめっちゃ行くようになった。貯金は光の速さで減った。
当時アナビで行われていた謎制作コンペで優勝したのはなぜかいまでもよく覚えている。結局謎制作をすることは続かなかったが、今思えばその最優秀作品に対する劣等感みたいなのに負けたんだと思う。
夏休みにMITに短期留学をした。日本に帰ってからもう海外留学はしたくないと思った。それくらい日本の飯はうまかったし、アメリカは怖かった。宿泊先の最寄り駅で銃撃事件が起これば誰だってそうなるだろ。
1年後期
前期までは化学の道に進む気満々だった。進学振り分けもマテ工*3とか応化*4あたりを目指していた。しかし、構造化学という授業で現代の化学を学ぶ上では量子力学の知識が必要だと知ってから熱が一気に冷めた。
かわって自分の興味をひいたのが「論理学」という得体のしれない学問である。人間の思考、言葉を記号化して研究するというこの一風変わった分野にどんどん惹かれていった。後期にとった哲学の授業で扱った『論理哲学論考』という書物がそれに拍車をかけた。世界は言語で表された事物の総体である、ならば言語がどのように世界を表現するのか、論理学にはその答えがあるような気がした。
2年前期
1年で論理学を教えてもらっていた先生に直接コンタクトをとり、勧めてもらった教材をもとに自ら論理学の勉強をした。客員教授だから、自分の所属ではないどこぞの馬の骨に突然迫られたということになる。迷惑千万。しかしそれに対していやな顔一つせず懇切丁寧に指導をしてくださった。教材の相談、質問、学会への案内、進路の相談など、いろいろなところでお世話になった。周りに同じ分野の勉強をする生徒がいない中で、曲がりなりにも広義の「指導教官」がいたということは大きな支えになった。彼なくして今の進路はありえなかったと思う。
東京大学には進学選択という制度があり、この段階で学部・学科を選ぶことになる。論理学にどっぷりだった自分は、もっと時間がほしいということで、必修が少なく要求単位も少ない現在の学科に進学することにした。
ここからは東大生にしかわからない話になってしまうが、正直点数は余裕で足りていた*5ので進振りで緊張することはなかった。ただ今でも、もしあそこで数学科に出していたら、と思うことはある。現に論理学それ自体の勉強で、あるいは大学院の入試で(これは後述する)、数学が必要になることはあって、そのたびに、回り道をしてしまったかな、と思わされることになった。
あとここらへんでついに貯金の残金が尽きて、それにいろいろトラブルが重なって結構病んだ。LINEをホーム画面から消して、ちょっと通知を見に行ったらバッジが3桁みたいな状況で、怖くて余計にLINEが見られなくなった。そんな状態がだいたい1か月くらい続いた。間違いなく人生で5本の指に入る地獄だったと思う。
2年後期
講義や課題は適当に済ませて、余暇はだいたい論理学の勉強と音ゲーに突っ込んだ。
2年の後期で、言語脳科学という新領域で研究をしている先生に出会った。言語という不思議について、神経科学の見地からアプローチをするというのが自分にとっては新鮮だった。結局その先生は卒論の指導教官になった。
アナビで一番制作に力を入れていた「SEGA × AnotherVision」の制作もこの時期だった。お勉強では結局ろくな成果物を残してなかったので、大学に入って一番デカかった制作物はこれということになる。自分がディレクターを務めた作品が、全国のユーザーに遊ばれるという経験は、何物にも代えがたいものがある。
この時期にバイトも始めた。勤務環境が良く、肉体的なしんどさもないことから、個人経営の私塾で働き始めた。飽き性の自分でも、このバイトはなんだか性に合っていたらしく、また塾の主任も自分の指導スタイルや思想を受け入れてくれ、そうしたおかげもあって2年半ほど勤続させていただいている。大学院に入っても続けていく予定である。
3年前期
論理学の勉強は、様相論理というよりマイナーな領域に入ったことでいよいよ孤独を極めた。このままでは東大で行ける大学院がないことに気づいたので、大学にかかわらず論理学が学べる研究室を探した。研究室見学は結構いろんなところに行った。
自動車学校に通った。平日のうち、授業終わりにバイトがある日はバイトに、そうでない日は自動車学校に行って、帰りにゲーセンに寄って帰宅、みたいな生活が続いた。自動車学校の待ち時間も惜しかったので、控室で教科書を開いて勉強していた。今思うと相当なイキリ大学生の見た目をしていたと思われる*6。結局免許はとれたのでよかった。
3年後期
高校時代好きだった謎解きとか、細々続けていたほかの趣味もぱったりと止み、授業を受けつつ論理学を勉強し、余った時間は音ゲーに突っ込むという生活で固定化されていた。院試に必要になるかもしれないといって、周辺の数学の勉強も始めた。勉強が苦痛でなかったかといえば嘘になるが、それでもそれなりに充実していた。ただ本当に勉強と音ゲー以外のことをしなかったので、こうして振り返りブログを書くとネタに困る。
無理が極まって必修のレポートを出せなかった。なんとか頼み込んで締め切りを伸ばしてもらったが、その締め切り直前も当然のごとく地獄を見た。完徹してレポートを書き上げた結果1月20日は44時くらいまで起きていた。当然寝て起きたら1月22日の昼だから、その年の1月21日は自分にとっては存在していない。結果的にその単位は拾えたし、こうしてブログのネタになって空欄になりかけた「3年後期」という欄が埋まったので、結果的にはよかったのかもしれない*7。
4年前期
例の感染症で良くも悪くもライフスタイルがめちゃくちゃになった。
家に出られなかったのでオンライン授業になった。それ自体はよかったのだが、院試に大きなダメージが来た。TOEICは中止、面接やペーパーテストは自宅受験となった。家にはベッドのみで椅子がなかったので、院試の勉強も院試本番もベッドに座って行った。腰が爆発するかと思った。
それにつけても院試は大変だった。なにしろ大学受験と違って模試がない。周りの受験者のレベルがわからない。おまけに外部受験ともなれば得られる情報も内部生より乏しく、それがより不安にさせた。数学の勉強も大変だった。受験科目の半分くらいは授業で習ったことのないようなものだったので、自習するしかなかった。そのときは何度数学科に入っておけばよかったと後悔したか数えきれない。問題のレベルとか制限時間とか、本番での大変さは大学受験には及ばないが、精神は大学受験と同等くらいにすり減った気がする*8。結果的に受かったのでよかった。
ここらへんで本を買い込み、読むことを始めた。もともと本を読むのが好きではあったが、大学生のころは時間がなかなか本を読むのがかなわなかった。改めて本を読むことは楽しかった。今では大きめの本棚を買わないとまともに本がしまえないくらいには蔵書が増えた。大学院でも続けていきたい趣味である。
ふらっと見てみた動画からバーチャルユーチューバーにはまった。このブログもバーチャルユーチューバーの配信を見ながら書いている。外出で持て余していた趣味の時間は配信の視聴に回された。今でもよく見ている。
ブログも本格的に書くようになった。5月くらいに書いたバーチャルユーチューバーについての記事がめちゃくちゃ読まれたのがモチベになって、真面目なこともくだらないことも書くようになった。合わせて、作文技術の勉強もした。4年生であらかた単位を取り切っていたこともあって、かなり熱が入った。
4年後期
卒論を書いた。書かせていただいた、といったほうがいいかもしれない。研究室に配属されてから研究チームに所属し、そこでのプロジェクトにかかわらせていただいた。そんなわけで自分でテーマ決めをしたことはないし、結局卒論も先輩に頼りきりになってしまった。自分の卒業のために時間を割いてくれた研究チームの方々に本当に頭が上がらない。
卒論以外の余った時間は論理学の勉強に復帰したかというと必ずしもそうではなかった。前期から続けてきた作文技術に傾倒した。意識して「よい文章」を書くようになったし、他人の文章の添削もするようになった。作文技術というのは評価されにくい。なにか特別な資格があるわけでもない。だからこそ、他人に褒められるのがより一層嬉しい。それが自分の努力を正当化してくれるからだ。
長らく通っていたエムエムランドというゲームセンターがつぶれた。院試にも受かり引っ越し先も決まりつつあった矢先の出来事だった。大学4年間で、自宅、大学の次によくいた場所だった。自らの東大生としての生活の終わりが重なって無性にむなしくなった。
そんなこんなで卒業した。
何を勉強したか
もともと化学の研究者になりたくて大学へ入ったはずだが、大学で論理学と出会って状況が一変した。1年生の頃は講義で哲学をやっていたし、2年生の頃からはその論理学を勉強した。3年生以降では論理学に関連のある数学や言語学にも触れたし、4年生になってからは大学の勉強ではないにしろ作文技術をめちゃくちゃ勉強した。卒論は言語に関係のある神経科学で書いた。
改めてみてもいろいろ寄り道をしまくったなあ、と思う。ただ、1年生の後期以降、常に興味の中心にあったのは「人間の思考・言語」である。言語学や数学はいうまでもないが、論理学は人間の思考を対象にする学問だし*9、神経科学の分野で書いた卒論も、人間の言語活動に迫る分野である。こうしてブログを書いているのも、作文技術を極めているのも、言語による思考表現への好奇心がそうさせているのだと思う。そういう意味では、1年生のころに講義でたまたま出会った『論理哲学論考』、世界の在り方を言語の在り方に求めた一冊の本が、無意識に根幹にあるのかもしれない。
音ゲーまとめ
結局4年間ずっと音楽ゲームをやった。大学に入ったばかりのころはもとより、入学から卒業まで、そして今に至るまで、音ゲーだけはずっと続いた趣味だった。結果としてはだいたいの音ゲーをそれなりにできるようになった。主な機種を、少しばかり感想を添えて総括したい。
DDR 足18未クリア1桁
熱が上がったり下がったりはしたが大学4年間でめちゃくちゃやりこんだゲームだと思う。高校までで運動とは無縁だった自分にしてはよく頑張ったと思う。
音楽ゲームの面白さが音楽に合わせて身体を動かすという原始的なものであるならば、DDRほど面白いゲームは他にない。音楽に合わせて踊るのは、得も言われぬ快感がある。運動が嫌いな自分でもそう思えた。きっと人間にはそういう快があらかじめプログラミングされてるんじゃないかと思う。
それでお結局足19クリアはできなかった。力量不足。新しいホームにもDDRがなくてモチベーションがなかなか上がらない。誰か見かけたらステージに連行してください。
CHUNITHM Max 15.65
大学4年間通してやりこんだゲームその2。音ゲーの地力の大部分はこの機種で育てた。
大学入学時にロクに地力がなかった自分にとっては*10、虹レート到達でさえ大きすぎる壁だった。毎日ゲーセンに通って練習していた時期もあった。それくらいこのゲームには真剣になった。
単純にプレイ人口が多かったのもあっていろいろな人とマッチングできたのも楽しかった。みんなで12にあるカスみたいな譜面を投げ合ってたりサークルのみんなでAlmaをやってたりした頃は正直心から楽しかった。Almaは未AJ
前述の通り、いい機会に巡り合えてこのゲームとコラボもできた。改めて誇りに思う。
maimai 楽曲レート7300
FiNALEから新筐体に移る直前でやりこんだ。デバイスに慣れるのが大変で苦労したが、なんとか旧作で虹レートに駆け込んだ。新作になったら簡単に虹レートになれて落ち込んだ。
DDRと同じく、これも大きく体を動かすゲームで楽しい。とはいえまだまだ新14はまともに遊べる地力がないので、気が向いたらまた地力を上げていきたい。ちなみにホームにはない。
オンゲキ Max16.00
チュウ・マイで虹レートを取ってしばらくして、全虹にあこがれて始めた。3年の12月に、1週間くらい暇な時間をすべてオンゲキに突っ込む生活をしていたら2週間くらいで虹まで到達した。あれは狂気だったと思う。
虹レートになったしオンゲキ終了、と思いきや、おもしろくてそのまま続けた。15.5は比較的あっさりと通ったが16.0は苦労した。ただここまで来たおかげで14の一部と14+以外はたいていまともに遊べるようになった*11。
SOUND VOLTEX 或帝滅斗
集中的にやった時期もあったが、ボルテはだらだらと続けていた。どちらかといえばプレイ人口が多くてマッチングがしやすいからある程度の地力はつけておこう、という安直な考えでやっている。部内の交流戦で一番盛り上がっていたのがボルテだったのも上達のモチベになった*12。
この機種はとにかく曲数も多い。母数が多いので当然いい曲も多い。いい曲に出会いたいならこの機種はやり得だと思う。
波が来た時にガッとやって、少しずつ進歩したゲーム。人並みにブルーミンには苦労したし、サファリにも泣かされたが、なんとか八段までは取れた*13。
地力がつくと、IIDXの名曲が自分で演奏できる。これがたまらなく楽しい。
WACCA 青XIII
因縁のゲームである。
稼働してから1か月くらいでちょくちょく触りはじめた。他機種の地力が生きたことと、まだ人口も多くなかったこともあって、全曲埋めたらわりと全ランを狙える位置についた。それから低難易度で理論値をそろえて高難易度でスコアを詰めたら全ランの結構いい位置につけた*14。ランカークラスの知り合いも増えた。
成長が頭打ちになったことに加えて、なかなかTANO*C楽曲を追加しなかった運営へのいら立ちが募り、一度WACCAからは離れた。追加される低難易度を埋めるのが面倒になり、全ランでしのぎを削りあうという大きなモチベが蒸発して余計に戻る気がしなくなっていった。
ただ、作が変わるごとに行われたCDキャンペーンは全作走り切っていた。ということで地力は伸びずとも劇的に落ちることはなく、なんだかんだダラダラといまでも続けている。ホロライブとコラボして推しのオリ曲が入ったときは真剣になったし、ツイッターのオタクたちとシャカリキファイトブンブンシャカリキファイトブンブンとはしゃぐのはおもしろかった。なにより今は全ランを気にしなくてよくなったから、やりたい曲だけやればよい*15。そんなわけでまたWACCAが楽しくなった。
ちなみにLily終了時点でなんとかXIIIはキープできていたが今作XIIIにTHE MUZZLE FACINGが入ったせいでそれさえ絶望的になった。かめりあ、許せねえよ……
謝辞
一般に、論文で用いられる「謝辞」というのは、研究を行ううえで重要な貢献を果たした個人や団体を明記し、感謝の意を示すものをいう。これに倣って、卒業にあたってお世話になった個人・団体を並べたい。
本来の謝辞は貢献度の順に書くものであるが、読みやすさと思い出しやすさを考慮して、時系列順にまとめることとする。
- 合格発表で足がすくんでふらついてた自分の肩をもつなどなんだかんだで4年一緒につるんでいた神奈川の悪友
- 前期教養の厳しい必修を支え合いで乗り切ってきたクラスメイト
- 4年間で一番受けてよかったと思える、ウィトゲンシュタインの講義をしてくださった哲学の先生
- AnotherVisionでかかわったメンバー(守秘義務の関係で詳しく書けないことを許してくれ)
書ける範囲で書くなら、僕に一枚謎の面白さと「最高の場所」で謎解きを作る機会を与えてくれた松丸さんと、謎解きでもそれ以外でも僕を世話してくれた5期生 - B2-B3くらいでメンタルやられたときに定期的に外飲みとか家飲みに付き合ってくれたフォロワーの友達(ただ飲みかけのカシオレにカシス追加されたときは死ぬかと思いました)
- バイト先
特に、ずっと僕の指導に責任を負ってくれている主任の先生と、自然科学を教えることの難しさを説いてくれた先輩と、こんな指導教員にも合格の喜びを見せてくれた努力家の生徒たち*16 - 東京大学音楽ゲームサークルB4UT*17
特に、深夜までずっと音ゲーをして音ゲーのほぼすべてを教えてくれた学科の先輩*18、院試で共闘して合格まで助けてくれた同期のオタク、4年で遊びに連れ出してくれた博物館見学会のみんな - なかなか外出れない時期にオンラインでわいわいできる環境を作ってくれた他大音ゲーサークルの音ゲーマーと、そのDiscordサーバーのみんな
- 卒論の完成に向けてめちゃくちゃ振り回したのに嫌な顔せずに助けてくださった博士の先輩と、神経科学や言語学を教えていただき卒論を見守ってくださっていた研究室の先生
- 院試とか卒論とか将来のこととかでめちゃ病んだ時にずっと通話付き合ってくれたサークル同期
- 4年間ひとりぼっちだった論理学徒としての自分にずっと目をかけてくれていた論理学の先生
- 4年間不自由ない生活をさせてくれた両親
ということでひとまずピリオドです。
ザ・エンドってね!
お疲れさまでした、ってね!!*19
*1:卒業が学籍番号の掲示で発表されたため、「卒業」って書かれたページがなかった。ぴえん
*2:書き散らしただけなので読みにくかったらすまん。
*3:マテリアル工学科。いわゆる材料工学。
*4:応用化学科。何が応用なのかはあんまりわからない。
*5:だいたい75点くらい。あくまで統合自然科学科に行くには足りていた、というだけで、べらぼうに高くて進学先選び放題、というわけではなかった。
*6:広げてた教科書が洋書だったのがさらに拍車をかけていた。邦語で書かれた様相論理の教科書はほとんどないから仕方ない。
*7:もちろん、課題で徹夜などはしないほうがよい。
*8:大学受験の勉強をあんまりまじめにやってなかったことも付記しておく。
*9:だから、同じ論理学という分野でも、数学基礎論と呼ばれる分野にはあまり魅力を感じていない。
*10:その頃は曲数が少なかったという言い訳もさせてほしい。
*11:ルナは別。
*12:とくに、交流戦でルナパを投げた時の驚異的なスコア差は忘れられない。
*13:ギガデリは八段を受けられる地力がついたころにはもう消えていた。
*14:20番台は踏めた気がする。
*15:しかしレートシステムの導入によって、いずれ14と向き合わなければいけなくなった。いやだ。
*16:お別れのあいさつみたいなこと書いてるけどまだバイト続けます。
*17:サークルのメンバーというより、サークルそのものの存在にさえ感謝したい。
*18:同時に卒業できてよかった。
*19:もちろん卒業にあたって不正はしてません。