【擬エッセイ】本を食う

 ミカグラです。今回は特に着地点のない駄文です。お暇な方はどうぞお付き合いいただければと思います。

 

 

 感染症のせいで外出ができないころ、文庫本を買いだめて家で黙々と読んでいくという新しい趣味をはじめました。小学生のころは学校の図書館にあった本を片っ端から読んでいくような人間でしたから、あるいは趣味をはじめ直したといったほうがよいのかもしれません。ところがこれが良くなくて、外出に対する世間の目が緩まり、お金を使う趣味が再開できるようになった今でも、学生の本分は片手間に、ずっと文庫本を持ち歩いています。古本屋に行っては野口を幾枚か溶かして本を溜め込み、ひとしきり読み終わると、あるいは読み終わらないうちに、また野口を書籍に変える。おかげさまで我がワンルームにも小高い丘ができました。

 

 最近「本を食う」という言葉遣いをよくします。なんだ文章は読むものだ、本といえば続く動詞は読むに決まっていると非難されることうけあいでしょうが、自分は本を食うという表現がどうにも気に入っていて、最近ではそういう言い回しをよくするようになっています。どうしてそんなへんちくりんな表現をするんだろうと気になって、少し考えてみることにします。

 

 自分はノンフィクション、いわゆる教養書というものを好んで食らう傾向があります。教養書を読む目的ははっきりしていて、何らかの知識を吸収する、あるいはそれに基づく筆者の主張、考え方を摂取するためのものです*1。知識の吸収、他人の視点の吸収は、私の見える世界を豊かにしてくれます。いうなれば精神の成長です。そして「精神の成長」というのであれば、肉体の成長には食物を「食う」のが必須であるのと同じように、精神の成長にとり、本を「食う」というのは自然な言い回しではないかと思うのです。

 

  精神の成長ということを考えれば、なにも食い物をノンフィクションの教養書に限ることはありません。フィクションの物語は別の世界、別の人間の人生を追体験できる立派な栄養です。映画やアニメなどの映像作品だってこれに含めていいでしょう。突き詰めればすべてのコンテンツを精神の成長のための養分ということができますから、「コンテンツを食う」といった表現も可能なのかもしれません。

 

  先日、こちらの本を読みました。

 

本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫)

本が好き、悪口言うのはもっと好き (文春文庫)

  • 作者:高島 俊男
  • 発売日: 1998/03/10
  • メディア: 文庫
 

 

中国の詩人・李白杜甫を対比して論じた「ネアカ李白とネクラ杜甫」、新聞に踊るおかしな言葉を批判する「新聞醜悪録」など、評論を中心に収録されています。しかしその書きぶりには軽快さがあり、随筆に似た読み心地の良さを感じます。こうした文章を書けるようになるにはどれだけの歳月がいるだろうと沈んでしまうのですが、一方でこう肩肘張らない文章も少しは書いてみようと思い、こうしたとりとめのない乱文もブログとして載せることにした次第です。エッセイと呼ぶほどの完成度があるかも微妙なので、擬エッセイとでも呼ぶことにしましょうか。

 

  こうしてみると、ブログにまとめるほどの文章にもなっていないなあ、という気が多分にします。それでもツイッターにセルフリプライツリーをぶら下げて、字数の区切れと内容の区切れが合わないような、あの苦しい形式よりかは遥かにましなものだと考えていますが、いかがでしょう。

*1:そうでない人ももちろんいるでしょう。