【読書録】J.S.ミル『自由論』を読む

 こんばんは。ミカグラです。

 

 今回のブログは読書録です。院試が終わったので、前々から読みたかったJ.S.ミルの『自由論』を読んでいき、自分なりに要約したものをまとめていきます。

 今日は第一章・序論、30ページほどを読んで要約。

 

 

 『自由論』の中では、「行為の自由」について考える。

 人間は社会生活のなかで、政治を行う権威に対して自由を獲得する闘争を繰り広げてきた。はじめ専制君主がいたころには、君主の介入の阻止、または憲法の制定による君主の統治という方法で、権威に制限を与え、自由を獲得してきた。しかし、社会が成長するにつれ、統治者は国民の選挙により選出され、また解任されるべきだ、という考え方が生まれた。そして、各国の政治体系は、こうした「民主主義」にとってかわられていった。

 しかし、民主制度が整うにつれ、ひとりの人間の統治者からの制限だけでなく、人間集団の「社会」からも、制約を受けるようになった。社会構造が、君主が遠く離れたところから人民を統治する構造から、人民同士が互いに統治しあう構造へと変わっていったからだ。そのため、権威に対してのそれとは別に、個人の自由に対し集団が干渉してよいかどうか、という境界線を作ることが必要である。

 この境界線は、一方では政治による法律の制定、というかたちで、境界線が引かれてきた。しかし、社会生活においては法律だけでは十分ではなく、健全な人間生活のためには、一定のルールが存在しなければいけない。にもかかわらず、このような問題に対して、進展はほとんど見られない。

 実際にいま適用されている原則は、自分を含む「多くの人が」「望ましいように」行動するべき、というものである。だがこの考え方は結局は個人の内心にある感情、極端に言えば「好き嫌い」である。個人の感情に根拠を求めることはできないから、こうした感情による自由を制限するか否かの判断は、正当にも不当にもなりうる。

 こうした現状に対して、ミルは、個人の自由に対する他者の干渉について、ひとつの原則を提示する。それは、他者が個人に干渉ができるのは、自己もしくは社会の成員への危害を防止する場合であり、かつその場合に限るということである(端的に言えば、「自己防衛」ということができるだろう)。このほうが本人にとって賢明だ、幸せだ、といった理由は、その行為を本人に勧めたり説得したりする理由にこそなるが、行為を強制したり、従わない場合に罰を与える理由にはならない。個人は、自分自身に対しての主権者である。

 自由とは、他人の幸福を奪ったり、他人を傷つけない限り、自らの方法で自らの幸福を追求できる権利のことである。個人にとって「もっともよい」生き方を互いに認め合い、干渉しないことで、総合的に人類は大きな利益を手に入れることができる。

 

 きょうはここまで。次回は第2章から読んでいきたいと思います。

 読んでいただきありがとうございました。